29歳のぬけがら

5歳くらいのころの不思議な記憶。

この身体は誰のもので、いまこの頭の中では誰が話しているんだ?誰か操ってくれる人が現れるんだろうか

— 身体と心が自分のものでないような感覚。今思えば、なんだか不気味ですらあるんだけれど、あれは本当はなんだったのだろう。みんなが体験するものなのか、わたしがたまたまヘンなのか。

やがて大きくなるにつれ、それは自然に消えた。あれはやはり何だったのだろうと思い返すと、「自我」が育つ前だったからなのかなと。

自我ってそもそもなんだろうと調べてみると、「自分自身に対する意識」のことらしい。鏡を見ると自分だと認識できるのは自我があるから。それから自分の意見を考えたり話したりするのも、自我がないとできないのかもしれない。

そして、興味深いことに、自我を持つことは当たり前なようで当たり前じゃない。マグロとかネズミとかは自我を持っていないらしい。

人間は、自分自身を見て自分だと認識でき、自分ごとで感情が動き、自分はどうしたらハッピーなのかと、自分の生き方を一番に考えたりする。「自分が良ければ結局いいんだよ」なんて言葉は、自我のない動物たちには生まれない感覚なのだ。

彼らは人間のように「生きがい」とか「生きる意味」とか「自分が楽しめるように」なんてことは考えずに、ただ遺伝子的に自分たちの種をつなぐために命を全うしているということか。

5歳の自分は、たまたま人間界にいて、まわりに流され、「自分」を認識するように育てられただけなのだ。

自分は何者でもない。個性も何もないし、こうして文章を書くこともない、ただ産み落とされ人間の繁栄のために命をつかう。そんな生き方はどうだろう。

あれから24年が経ち、自我を獲得し、自我の操り人形になった自分は、そんなんじゃ自分じゃないだろう、つまらないだろう、なんて思ってしまった。

5歳の自分に聞いたら、果たしてどちらを選んだか。自我のない人間は、どちらを選ぶのだろう。

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