おたがいさまの経済
経済学者 斎藤幸平の『ゼロからの「資本論」』を読んだ。そこで主張されているのが、「脱成長コミュニズム」という経済形態。ドイツの経済学者 マルクスの思想を追いながら、彼の見ていた資本主義のその後の世界を描いている本。
この本によると、私たちは資本主義に生きていながら、日常は「コミュニズム(共産主義)」だという。それは、例えば、友達の家にお泊まりさせてもらいそのお礼にご飯を作ってあげる、とか、引越しをお互いに手伝い合う、とか。お金を用いた「貨幣交換」の経済ではなくて、共同体による贈与しあう世界のことを言うのだそうだ。それを仕事でも行うべきだ、というのが斎藤さんの主張である。
そうだ、このことを考えたことがある。仕事もお金との引き換えではなくて、物々交換的にやれることはないか。例えば、私は英語を使う仕事や販売の仕事をしているから、そのお仕事の代わりに、食べもの屋さんからご飯をいただく。お洋服屋さんからは洋服を貰い、布団屋さんからは布団をもらう。不動産屋さんからは家を借り、、おっ衣食住が揃った、、、と、そんなに簡単ではないだろう。
今私が一緒に働いているのは、文具屋さん、AI関係、デザイン会社、イラストレーター、、、仮に全員と物々交換ーつまり私が金銭ではなく、何かしらのモノやサービスで対価を受けるとしたら。
そうして考えていくと、私のポートフォリオの弱点は、食がないことだ。食べ物は、自分で作るか、誰かのお手伝いをするか。どうやって食べ物を手に入れよう。誰か英語必要な人いないかな、、。
さて、それを実際にやれるかやれないかは置いておいて(というか、じゃあ国に払う税金や保険料はどうするのだ?という話になるし)。自分の生活にとって必要なもののために働く、というのは、理にかなっている気はする。そしてこの考え方を社会全体に視点を広げると、まず需要があるだろうものは、食や生活必需品、医療、福祉、教育などであろう。そうして、自然と不必要な仕事が炙り出される気がする。
行き過ぎた資本主義というのは、みんな薄々分かっていながら、投資をし続ける。この本にもあった、「自分たちの亡き後に大震災や大恐慌が来れば良い」、という考えのもとで、今日もせっせとお金づくりに励む人間たち。そして早くそこから脱したいと思いつつも、物々交換をした時に必要なもののために働いていない自分。この矛盾もまた人間らしいと、言い訳をしている間に、せめて何か行動くらい起こしたらどうなんだ。
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『ゼロからの「資本論」』
斎藤幸平 / NHK出版新書