ひろいせかいの話1

曲がりなりにもことばの勉強をしたわたしは、ことばの世界のことをしばしば考える。

例えば、🍎はなぜりんごと呼ばれるか。

そしてその言葉が発せられた場合に、聞き手にはどんな🍎が浮かぶのだろうか。1つか複数か、丸のままかうさぎ形に切ってあるか。赤か緑か。

「りんご」1つの単語でも、人それぞれ想像するものが違うということにならないか。同じ文字、同じ響きなはずなのに。ここに言語の面白さがあると感じる。

そして、それが言語が違ったらどうか。文章になったらどうか。

「りんご買ってきて」という文章で考えてみる。日本語では、「りんご」単体で文章に入ってなんの違和感もないけれど、英語では “Can you get me an apple?” と、数を特定した表現(複数個であれば、some apples, a few apples など)と一緒に使うことが通例だ。

さぁ、買ってきたりんごを見てみよう。

日本語では、多くの人が生の丸いままのりんごを買ってくるだろうことが想像できるけれど、数は任意だし、仮に缶詰のりんご、カットされているりんごを買ってきても、文句は言えない。

「だって、コレだってりんごじゃん!」

英語の方は、どうだろう。

an apple と言われたら、生の丸いままのりんごが1個、である。apple は、丸い果実を指し、an は1を表すのだから。缶詰のりんごは canned apples、切ってあるりんごは sliced apples や diced apples と言うので、🍎以外のりんごは候補にそもそも無いわけだ。

ここに、今度は言語の違いの面白さがある。曖昧な表現で終わらせ、相手に空白の意味を読んでもらうという構造になっている日本語、対して言語の構造からして、なるべく正確に相手に伝えようとする英語。

こうした気づきがあると、なんだかわくわくする。長い間、学問を切り開いてきた人間としての性なのかなぁと思ったりする。

そして、ここから今度は、最近自分の中のブームである、言語以外の世界へ話を進めたいと思う。が、なんと、前置きがこんなに長くなってしまいました。ので、続きは次の記事へ。

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